昭和42年11月23日 朝の御理解
人を大事にすれば人から必ず大事にされる。お金を大事にする人はお金から大事にされる。お金を粗末に使う人は必ず粗末にされる、ね。物を大事にする人は物に不自由しない。これはあの、絶対の理だと、こう思います。金を大事にする人、ただそれがしみったれて大事にするというのではなくて。まあ一つ、金ば大事にしよるというのでですね、百円札なら百円札を毎日きれいにシワを伸ばして、それにこてまで当てるといったような人を聞いた事がある。そういう意味じゃないですね、金を大事にするという事は。
金のいわば性根を大事にする事、ね。という事はその金をほんとに生かして使えれるという事なんだ。それを生かすという事に大事に。大事に大事にして、入ったが最後タンスの中に直して大事にする。そういうものとは違う。人でもそう、本当に人を大事にする人がいます。もういわゆる何て言うんでしょうか、人好きと申しましょうか。そういう人を大事がる人がある。もうあちらへ行ったら、もうさあ上がりなさい、さあお茶を飲みなさいと言うてその大事にされる。
そう、あんまり大事にされるからあそこに行かれんて、さあ反対に大事にしよるといわれない訳ないですね。大事にするという事は、その人を生かすということ。物を大事にする、同じ事なんです。ね、そういう意味では皆さんどうでしょうかね、お金に不自由しとるなら、お金を大事にしよらんのですよ。そういう所を一つ本当に分からせてもらわないけません。ところで皆さん、何が一番大事ですかと。もし問われたら皆さんは何を一番大事と言われる。
それはもう第一やっぱ命です。ところが自分の命よりもお金を大事にするというような人もないじゃないですね。命よりもお金を大事にする。ね、仕事を大事にする。それは、もう私の命ですと。と、自分のその頂いておる定職、そういう仕事を自分の命のように思う。素晴らしい事です。けれども、信心をだんだん分からせて頂きますとですね、命よりもお金よりも物よりも、何よりもそれは人の信用よりも、ね、何を一番と言ったってやっぱり人からの信用を受けるという事が大事、ね。
人を大事にする人は必ず人の信用を受ける。ね、けれどもそれよりも大事なもの。いわゆる命よりも大事なもの。信心は私の命ですなどと言うけれども、実を言うたらその命よりも大事なもの、それは信心であり、神様であり。私はそういう信心が分かる時にですね、一切な物から大事にされると思うですね。人からも物からも、ね、金からも、ね、例えば金なら金を大事にするという事だけでもお金から好かれる。けれどもそれだけでしょうが。
人を大事にすると、人の信用を受ける、人を生かせれる人。必ず人から大事にされる、ね。それでも、人から信用を受けただけで、あの人は精神に甘んじてござったり、師匠が苦労であったという人は沢山あるでしょうが。人の信用はもうとにかく絶大にある。けれども金には恵まれなさらんじゃった、体はいつも不健康でなさったというような例が沢山あるでしょうが。ね、これはもう、みんなそうなんですよ。もう本当にあの人は仕事が命じゃった。本当に、なるほどその仕事、その事業では成功されたけれども、けれども人間関係、この事あの事には不自由、困られたというのがございますでしょうが、ね。
だから信心とはですね、そういう一切のものから、大事にされる私はおかげの受けられる道だと思うのです。ね、ですから私共は本当に信心を大事にしなければなりません、神様を大事にしなければなりません。もう言うならば、もう何と言うても神様第一主義なのだと。ね、神様第一主義にしておるか、命を粗末にしておるという事はないです。私はもう神様第一主義じゃから、お金はポンポン、ガンガン使うというような事でもないです。
ね、何事にも信心にならせて頂いたらです、その何事もが信心に基づいて出来るようになるんです。人を大事にする事も金を大事にする事も、本当に物を生かすことの、言うならこつあいという物を信心によって体得するのですよ。ね、けれどもそれは何時もどの場合でもその事は第二義であると、第一義というのはやはり神様を信じるである。ね、例えて言うなら、なるほど命を大事に。例えば、もう「こがれる」ように熱があっても、ね、それこそ這いも立ちも出来んごとあっても、まあ例えばここで私が思わせて頂くんですけれども、まあ例えば朝の御祈念なら朝の御祈念だけはどんな事があっても、私は務めなければならない、奉仕させてもらう。
これは、もう私は自分はもう自分の命よりも神様を大事にしていかなければでけんのですよ、もう熱のあること知ってある。今日だけ今日こげん忙しいこと分かっちある。というて命を大事にするのでなから なければ、その忙しいこと大事にするのでは、それがどういう例えば人に不義理な事になってもです、ね、その時には、「 」自分でも知らんて言われるかもしれませんよ。
本当に体を大事にしなさらないかんですよ、何と言ったって体、体の丈夫を願え体が元なりと仰っしゃるから、体を丈夫にですよと。だから、例えて言うならばです、ね、結核患者が血を吐きながらでも、吐きながらでも神様にお参りをする。そこから、医学でも、薬でも、ね、いわゆる医者のビックリするようなおかげというものは、そこから生まれて来るのですよ。神様を第1主義にするか、そこにです、合理的ではないところの、超合理的なおかげというのが頂ける。信心は合理的なものではない、というて不合理では尚更ない。
いわゆる超合理的なんです。それはどういう事かと言うと、神様第一主義という頂き方は、そういう風に見える場合がある、不合理なように。神様の御信心のる時に神様はその命を大事にして下さる。その家蔵財産をもうそれこそ誰の、誰の守護を受けるよりも、誰からかもらえるような強い力でその家倉財産を守護して下さる。
その辺が素晴らしいでしょうが。ところがこの辺が実際言うたら体験しなければ分からんのだと。そんなら神様がそげん大事にして下さるならち、家倉財産をお供えしよち。だからそのまま全部お供えしてしまった。ね、だからそういう条件があるとさらさらないのですよ。神様に大事にして下さるなら、下さるなら私も命を神様に捧げよう。きょうはね、もう信心のね、もうギリギリのところなんです、今日のお話は。だからそこは出来んでもです、出来んけども同じ事はそこでなかなければいけないということ。
今日はお月次祭。こういう風に忙しい事があると、神様がご承知だから、もうそのくらいなところくらいから一つけいこせろという訳なんです。はあ今日は月次祭、出られらんという時にどういう不義理をしましても、やはりお参りさせて頂こう。そういう所から、まだ稽古が出来るのではないでしょうか。本当して、私は神様第一主義の孝行させて頂いておる事になる時にです、ね、その気にならせて頂く所に、なるほど神様が例えて言うのならば、私が神様第一主義ならば、神様がまた大坪総一郎第一に、第一主義、一主義になって下さるから有り難いのである、ね。
尊いもの、もうこれほど尊い事はないです。ね、命よりも金よりも物よりも、自分の仕事よりも、神様を大事にすると言うんですから、そういう、まあけいこがです、小さい頃から出けて来るという事。ね、皆さん目指すところはそこでなからなきゃいけない。本当にそういうように、もう無条件に神様第一主義になれれるようになられたら、どんなに素晴らしい事であろうかという事を一つお互いが胸にし、それを願いにし、そして一つの小さい事柄の中からでも一つ一つ、そのなるほどなるほどと体験していく。
本当に皆さんの場合はお金が大事、仕事が大事、ね。いわゆる、もちろん大事でなからなければなりませんけれども、言うならば神様よりも大事というような事柄があまりにも多いのじゃないでしょうか。ね、いいや、信心も上手にしよります、毎日お参りしよります、しっかり有り難いことも分っとります、ね。そこまでは頂いておるけれども、家の神様を何よりもかによりも有り難いんだ、何よりもかによりも尊いのだ、大事なものだと、大事なんだという事をです、ね、分からせてもらってそこのところを一つの焦点の目指しに進んで行くということ、ね。
自分が人から大事にされない、粗末に扱われる。それはアンタが人を大事にせんからと。いいや大事にしよります、例えば主人なら主人を大事にしよります。ところが主人は
放蕩をする。姑は大事にしよります、それこそもう出くわすように、「 」けども、家のばばさんな、もうとにかく鬼のような人。自分をいじめなさる。それはね、それはね、ただ形の上で大事にしよるだけで、相手を一つも生かしよらんからです。ね、もうその生かす術ていうのはどこかと言うとです、信心なんです、ね。
そればっかり大事にしよるごと、信心の方ばおろそかにする。信心の方を大事にしないから大事に扱われんのです、ね。昨日私、午後でしたかね。久しぶりであの、昔の映画ですがね、あの、片岡千恵蔵演技するところの、「きうちそうば?」ですね。昨夜、左倉惣五郎?の映画を見せてもらって。もう、非常にもう古い映画ですね、市川歌右衛門、大友竜太郎ですか。市川「 」あたりがまだ若いです。もう今ぜんぜんあってる例えば人がまだ小屋で寝ておるといったようなめずらしい映画でした。
皆さんご承知のように、直訴の罪で張り付け一家中が遇うというに、ような筋の物ですね。まあそういう働きを、いわゆる自分の身、自分の一家を、もう子供も家内も、何百か町村の犠牲 になる訳ですね。ほれで、いよいよその、処刑される為にとうまるかごで、おくられる。村民達がその、道に出てから、そこで別れ惜しみ。もうそれをですね、その、怒っておる者も、もう思わず知らずこうやって合掌しよる、・・・?の中を拝みよる。 私はその時に思いましたですね、人間のもういよいよの時には合掌するもんだという事を。ね、もうどんなに無神論だ、神様、仏様はござらるもんか言う人でも、もういよいよの時にはもう思わず知らず合掌しておるという事。人間の尊い姿と言いや、もう一番この合掌しておる姿なんです。ね、ただおかげば頂かんなんけん拝まなんといったようなものじゃない。「お参りしだす?」ね、その証拠には世界中のあらゆる宗教がです、ね、やはり礼拝をするというこの合掌するという事は、やはり同じですものね。
ほう、日本の方でも拝みよるけん、シナでもやっぱ合掌しよるちゅうものじゃないとですよ。もう期せずして、合掌なんです。ここには両手があるという事なんです。すいませんて合掌しておる。ありがとうございますと言うてお参り合掌しておる。「 」もうどうにも出来ない時が思わず合掌して、何者かすがっておる。これが信心のね、これが人間の言うならば本能でもあろうかと私は思う。ね、その素晴らしい事をです、私共はそういうような事ではなくても拝む事の道理を拝ませて頂く事の有難さを分からせて頂いておるのです。拝む対象はどこかと言うと天地金の神様なん。
金光大神の御取次を頂いて天地金の神様をいつでも拝ませて頂いて、天地金乃神様の「 」という事はです、自分の周辺の人も金も一切のものを拝む事なんです、ね。そういう私はまあ元。その、その一番に拝むの一番大事なもの、根本であるところの神様、ね。ですから、その根本であるところの人間の「 」に自ずとそうならせて頂けれるその元であるところの神様を私共がいよいよ信心によって分からせてもろうてですね。
思わず知らずじゃなくて、それが道理が分からせてもろうてです、卒業させて頂く、その神様を一番大事にする。それは命よりも大事にするという事はです、ね、一番その事がありがたいんだという事をですね、分からせて頂いての信心。ただ神様が従で私共が主であるというような信心をおかげ信心と言うのです。
健康がままにならなんけん、お金ばお繰り合わせ頂かなならんけんというものはですね、神様を従にしてるんです。神様を家来にしてるんです。神様使うとるとです。ね、だから私共は神様に使われる立場。それがどのような場合でも、暇の時だけは使うちもろうたっちゃ良かですよ、ね。余っとる時にはあげますよ。余ったらあげますよ。まるで神様の乞食のごと思う。
ね、そういう観念からです、本当に神様第一主義にならせて頂くという事を私共が願いとしての信心。ね、誰が何と言うても、神様第一。それは仕事よりいわばもう本当に動きの出来ぬごたる状態のように、大事にしとかないかんですよと言われても、はいはいにしながらでも御神前に出てくるという時には、もう自分の命よりも神様を大事にしておる時なのですから、一時が万事にそういうけいこをですね、ささいな事柄の中から、もう只今申しますように、ね。
例えば23日という、お月次祭は月のうち一回しかないのだ。その一回のお月次祭をただ自分の修行ぐらいな事でおろそかにしたら、神様に対して相済まんのだと。これはどういう事があってもです、ね。そういう例はもう沢山あるんですよ、ね。ほれでそこんところでお繰り合わせを頂く、お繰り合わせを願ってそれが大事に出来れる事を願う信心。ね、そこに神様が私共を本一というか、私共を第一義に取り扱うて下さる広大なおかげとお徳が受けられる訳なのです、ね。
三伊目指すとこはそこなんです、ね。もっとそういう事をです、お互いが分からせてもらうという事、そして神様中心、神様はいわば御主人という在り方にならせてもろうて信心のけいこをさせて頂かなきゃなりません。何が一番大事かと。大事な事は沢山あります。けれどもその大事な、どのように大事なものよりも、一番大事なものは信心だと言えれるような信心を一つ目指したいですね、どうぞ。